マケドニア玩具倉庫

無駄遣いをヌタヌタと書き綴ったブログ…

その槍を持つ者は世界を制する 

キリストの棺でロンギヌスの槍にふれたのでついでに。
始めに断っておくとこれは個人のメモ書きとしてまとめたテキストであり、
その内容の信憑性、真偽性については保証の限りではないで悪しからず。
いろいろな情報を一番妥当性があると思う方向でまとめたもので、
以前公開していたものを改訂したものです。

ロンギヌスの槍の話はイエス・キリストが西暦30年頃、
ゴルゴタの丘で磔にされたところから始まる。
このことはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つ福音書すべてに
キリストの受難として裁判と死刑にまつわる記述がある。
またヨハネの福音書によればこのとき、ローマ兵がキリストのわき腹を槍でついたとされている。
また、この事自体は史実に基づいた事実であるらしく、
イエスのわき腹を槍で突いたということ自体は死刑にまつわる正しい出来事のようである。
(イエスの死を確認するために槍が突き刺されたのであって、イエスが槍で突き殺された訳ではない)
ロンギヌス自体は4世紀頃に出来た新約聖書外典のニコデモ福音書(ピラト行伝)
により初めて名前が明かされている。
これはヨハネの福音書にある槍の話と十字架の下に立っていた兵士の話を
結びつけたものであろうと推測される。
また、このロンギヌスという名前に歴史的根拠は無く、
初期の教会が考えた名前であろうと推測される。
ラテン語のlongusが元になっているなどその由来にはさまざまな説がある。
また、この人物が白内障を患ったガイウス・カシウス兵卒長であるとの話もあるが後世に作られたはなしであり、架空の人物である。

このローマ人が実際に誰であれ、ローマ軍の兵士であったロンギヌスは
エルサレムのローマ軍要塞を拠点としていたため、聖槍もここへ戻された。
西暦66年、ユダヤ人の反乱によりエルサレムは破壊され
ロンギヌスの槍の行方はわからなくなる。
或いは、本物の聖槍はこの時点で失われている可能性が高いのではないかと考える。

しかし、初期キリスト教の伝説によれば槍はその間安全なところに保護されていたらしい。
西暦135年のハドリアヌスによるエルサレム制圧の後、槍はエジプトに渡り、
3世紀にはいってテーベ軍団のマウリティウス(聖マウリティウス)の手に渡るが、ガリア(フランス)への反乱鎮圧遠征の際、マウリティウスはマクシミアヌスによって処刑され、
マクシミアヌスから娘ファウスタをの結納品としてコンスタンティヌスへと渡ったとされる説もある。
しかしこれは後世の作り話である可能性が高い。
その理由は後述する。

西暦326年、ローマ皇帝コンスタンティヌスの母へレナが
エルサレムを発掘した際にロンギヌスの槍を発見したのが事実であるとすれば、
コンスタンティヌスは当初槍を持っていなかったことになる。
このとき他に発掘された聖遺物をヘレナは持ち帰ったが
ロンギヌスの槍は持ち帰らなかったとされる。
その後、聖地巡礼者アントニウスによって
シオンの丘の教会堂で見たとこの槍の所在は記録され、
現在も残っているらしいことからも、ロンギヌスの槍がエルサレムにあった事が伺える。

コンスタンティヌス帝はヘレナが持ち帰った聖釘を王冠と槍につけ、
支配の象徴とした。
この新しい槍は再統一されたローマ帝国の新首都であるコンスタンティノープルの境界線を引くのに使われたとも言われている。
この槍を便宜上コンスタンティヌスの槍とする。
この槍はテオドシウス二世の時代にフン族の王アッティラに講和の賠償金とともに手に渡り、更に西ローマ帝国に攻め入って講和した際に叩きつけて捨てたともされます。
しかし現存しているロンギヌスの槍を見る限り、コンスタンティヌスの槍が現在バチカンにある可能性は高いような気がする。

西暦614年ペルシャによりエルサレムが占領されたとき、何者かが槍の刃先をコンスタンティノープルに持って逃げたとされています。
西暦670年にエルサレムが奪回されたときにも槍の刃先はコンスタンティノープルに残されたとされています。

西暦775年頃、ローマ教皇がコンスタンティヌス帝が使った槍だとしてカール大帝に槍を渡しています。
これが現在ウィーンのハプスブルグ家に伝わるロンギヌスの槍で
ここでは区別のために聖マウリティウスの槍と呼びます。
これは11世紀に聖マウリティウスに捧げられた銘が書かれているためです。
この槍自体は最近の科学調査で7世紀から8世紀頃につくられたもので
14世紀にカール4世によってつけられたとされる
「これはキリストの槍であり、釘である」という碑文を書いた金の鞘も
11世紀にハインリヒ4世によってつけられた銀の鞘も科学的に証明されました。
したがって、これはカール大帝に与えるために教会によって作られた槍であると
いって差し支えないと思われます。
ここで重要なのは教会がコンスタンティヌス帝が使ったと言った槍に
聖マウリティウスに捧げられる銘がつけられたことで、このことからも前述の聖マウリティウスの槍がマクシミアヌスからコンスタンティヌスへ渡ったとされる説は後世の作り話であるといえます。
(コンスタンティヌスの槍は母へレナからもたらされた聖釘をまきつけた当時の槍であるし、マウリティウスが伝説どおり槍を持っていたとすればそれはロンギヌスの槍であり、そこでコンスタンティノープルに保管されてしまうためコンスタンティヌスの時代にはエルサレムの神殿の丘に保管されていたヘレナの発見した槍を後世コンスタンティノープルに持ち込む理由が無くなる)
カール大帝が受け取る以前、ローマ帝国最後の皇帝テオドシウス以降、
西ゴート王アラリック、東ゴート王テオドリック、ユスティニアヌス、
カール・マルテルらの手をわたっていたとされる説もありますが、
そもそもこの説はコンスタンティヌスの槍と聖マウリティウスの槍が
同一のものであるという勘違いが前提になっており、
マウリティウスの槍がコンスタンティヌスの手に渡ったという説と同様
作り話であるといえる。
特にユスティニアヌスはビサンチン帝国皇帝であり、
彼のいたコンスタンティノープルには
当然コンスタンティヌスの槍があり、
この時期ロンギヌスの槍はエルサレムにあったわけである。

カール大帝の死後、ヨーロッパの各地を転々とした聖マウリティウスの槍は
ザクセン公ハインリヒ一世の時代に神聖ローマ帝国に戻ります。
(ブルゴーニュ公からブルゴーニュを将来神聖ローマ帝国の一部とする
約束の証拠として贈られたらしい。時代的にはユーグか?)
そして息子のオットー一世が神聖ローマ帝国皇帝になります。
(ハインリッヒ一世からイングランド王エセルスタンへと贈られ、
再びエセルスタンの妹の結納品としてオットー一世に戻ったともされる。)
オットー一世自身はロンギヌスの槍は他にあることを知っていたようだが
聖マウリティウスの槍自体にも歴史があったためそちらを重要視したらしい。
オットー一世はこの槍を使いマジャール人を打ち破ったと伝えられる。
以来聖マウリティウス崇拝がおきマウリティウスは守護聖人となります。
また、オットー一世はこの槍の複製をポーランド王とハンガリー王に
渡しています。
ポーランド王に渡されたレプリカは現在もクラクフ大聖堂に保管されている。
オットー一世の孫オットー三世が槍にキリストの十字架からとったという釘を
はめ込んだが、こちらも当時の釘である可能性は否定されている。
しかし、この釘には連続していない部分があり、
釘に何かが打ち込まれていることもわかっている。
それこそがキリストを磔にした釘であるかどうかの調査は不可能であるらしい。
その後カール4世の時代に金の鞘がつけられて現在の形になった後、
1424年ニュルンベルグの豪商により買われた聖マウリティウスの槍は教会に保存された。
しかし聖遺物を利用した商売が横行した結果、プロテスタントが
起きる結果ともなり、聖マウリティウスの槍は教会の天井につるされたまま
300年間忘れ去られます。

1098年、アンティオキアの戦いの際にロンギヌスの槍だとして掘り出された
アンティオキアの槍は、戦いに勝利した後ビザンチン皇帝に渡された。
コンスタンティノープルにあった槍と別物であることが十字軍の中にいた
教皇の大使によって確認されている。
また、この槍がカール大帝の使用した槍であるとの珍説があるが、
年代的に不可能である。

この時点でロンギヌスの刃先、コンスタンティヌスの槍、アンティオキアの槍
の3本がコンスタンティノープルに集まっていたことになる。
この時期アルメニアにも槍が伝わっており、今日アルメニア正教会の
エチミアツィン大聖堂に保管されているがこれがなんであるのかは不明である。

西暦1204年、第四回十字軍のボードワン二世により、コンスタンティノープルは
占領され、3本の槍も奪われる。
ロンギヌスとされる槍の一部は1241年にその信仰心の高さゆえ聖遺物を
高額で買い求めていたルイ9世に売られ、フランス革命まで
サント・シャぺルに安置されていたがその後の行方は不明である。
しかし、これが実際にロンギヌスであったのか、または残りの二本のうちのいずれかであったのかは不明である。

そして1453年オスマン・トルコ皇帝スルタン・マフメド2世にコンスタンティノープルが占領されるとトルコ皇帝はコンスタンティノープルに残されていたフランスに売却されなかったロンギヌスの槍を手に入れる。
それを知ったローマ教皇イノケンティウス8世は時のオスマン・トルコ帝国のスルタン・バヤジド2世と取引をし偶々教皇庁が捕虜にしていた
トルコ皇帝ので弟ジェムと引き換えにバチカンへとロンギヌスの刃先を取り戻した。
このロンギヌスの槍の刃先は現在もバチカンのサンピエトロ大聖堂に保管されている。
しかし、この槍の刃先がボードワン二世の手に入れた三本の槍のうち
いずれのものであるかは科学分析をしないとわからないというのが実際であろう。
ただ、バチカンに伝わる槍には釘が巻きつけられていることから
明らかに偽物であるアンティオキアの槍である可能性は低いと思われる。
(フランスに渡ったのが恐らく明らかに偽者であると分かっていた
アンキオティアの槍ではないかと推察する)
伝説が正しいとすれば、聖釘を槍につけたというコンスタンティヌスの槍かヘレナの発見したロンギヌスの槍であろう。
(ロンギヌスにはキリストを刺した際に槍が二つに割れたため聖釘を巻きつけたという伝説がある)
ただ、必ずしもロンギヌスの槍が釘を巻き付けたものであるかは確定しないということから形状から考える可能性的にはコンスタンティヌスの槍である可能性のほうが高いと推定する。

いずれにしてもボードワン二世の手に渡ったあとの三本の槍の行方は定かではなく、
いずれにしてもバチカンに現在保管されているものだけが唯一残った「ロンギヌスの槍」です。

一方、聖マウリティウスの槍はもう少し続きがある。
1805年、聖槍を欲したフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトによってニュルンベルクは攻め落とされるものの、聖マウリティウスの槍は一足早く帝国首都ウィーンに運ばれる。
結果的に神聖ローマ帝国は滅亡するも、聖マウリティウスの槍は無事だった。
その後ハプスブルグ家に運ばれた聖マウリティウスの槍は
1938年アドルフ・ヒトラーによって第三帝国の象徴としてニュルンベルクへと運ばれた。
しかし1945年、ドイツ敗戦と共に米軍によって奪還され再びハプスブルグ家へと返還された。
これまで本物は武装親衛隊が米軍よりも早く南極へ持ち去り、
米軍が手に入れたものはレプリカであるなどの説もあったが、
前述のとおりこれは科学的な調査で複製ではないことが証明されている。
(現在のものはナチス時代に日本人の手によって作成された複製という
珍説もあるようですが日本人の刀鍛冶がいかに優れていようと
各年代別元素まで複製できたらそれは最早複製ではありません
……と思ったらこの説を紹介しているところで十字軍の発見した
アンティオキアの槍をカール大帝が後に使ったことになってたw)


エクスカリバーについてもこっちに移植しようかしらん
[ 2007/11/22 03:33 ] その他 | TB(1) | CM(0)
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する
この記事のトラックバックURL
http://minerba.blog92.fc2.com/tb.php/39-8f7099d7

ウィーンウィーン(Wien)は、オーストリアの都市名および州名であり、同国の首都でもある。人口は167万4595人(2007年9月30日)。都市単独で一つの連邦州である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。
[2007/12/31 05:07] 首都の旅
備忘録
管理人の更新するまでもないメモ書きです。

○サンマルコ ☆エル・グランデ ☆ハチエンダ ○ニュー・エントデッカー ○レーベンヘルツ △ドージェ ☆アベ・カエサル
再生産アンケート
amazonランダムアフィリエイト

ブロとも申請フォーム